第83話 腹も身の内

 便秘が長引くと肌が荒れますし、吹き出物が増えてしまいます。昔からの言い伝えでは「腹も身の内」とか「腹八分目に医者いらず」などとも言われてきました。言い伝えを現代風に言うなら、「食べ過ぎは肥満と糖尿病の原因なので、少々お腹が空いているくらいが良い」ということでしょう。片や便秘の方は、食べ過ぎとの因果関係があるわけでなく、小食の人でも便秘になりますし、食べ過ぎても快便の人は大勢います。中でも慢性の便秘は食べる量とは関係ありませんが、過敏性腸症候群の原因の1つなので要注意です。

 腸内に悪玉菌が増えると便秘になり、善玉菌を増やせば治る・・・との俗説があります。それを根拠にして、ビフィズス菌、乳酸菌、酪酸菌などの製剤が売られています。残念ながら誰にでも効くという商品はありません。何故なら大腸に棲んでいる腸内菌の種類と数は、腸内菌叢と呼ばれていて、一人一人が皆な微妙に違っているからです。その上、善玉菌や悪玉菌の種類と数は腸内菌叢全体の中ではほんの僅かなものなのです。その代わりに、腸内菌研究の世界の先駆け光岡知足先生が名づけた「日和見菌」が大量に棲んでいるのです。

 日和見菌とは、周囲の状況に合わせて善玉でも悪玉でも強い方の味方になるという意味です。ですから錠剤1粒とかの僅かな数の善玉菌で便秘が解消する人は、もともと少ない善玉菌の数が、同じく少ない悪玉菌の数を運良く少し上回ったからだと言えるのです。つまり僅かな数の援軍でも大量の日和見菌を見方につければ、悪玉菌を駆除できるという訳なのです。

 さて、便秘のお話はこのぐらいにして、次は「腸内菌叢の中には体の免疫にとって非常に大切な代謝物を作る菌がいる」というお話です。もちろん悪い代謝物を作る菌もいるのですが、そちらは別の機会といたします。

 前世紀の中頃の古い話で恐縮ですが、日本人がセルロースを食べたときにお腹の中でできる代謝物を調べた実験があります。驚いたことに、ビタミンB3のニコチン酸(ナイアシンともいう)ができたのです。セルロースからどうしてビタミンができるのか、実に不思議な実験でしたが、更なる驚きは、食べた人の代謝物ではなくて、腸内菌が作ったものだったのです。この論文がもし今発表されたとしたら、きっと世界の学会が大騒ぎになったでしょうが、その時はそれっきりで終わってしまいました。しかし最近になって様子が変わって来たのです。セルロースは線維性食品と呼ばれるようになり、腸内菌は〇属の○○菌というように特化して調べられるようになったのです。

 そうして現在最も注目されている腸内菌の代謝物は「酪酸とニコチン酸」の2つです。酪酸はもの凄く臭い匂いの液体ですが、ニコチン酸は真っ白な無臭の結晶です。そして腸の中ではどちらも水に溶けていて、大腸の壁細胞に吸収されます。するとそこに待っているのは、酪酸もニコチン酸も結合する受容体タンパク質で、その名はGPR109Aと呼ばれています。この受容体はどちらかと言えばニコチン酸とより強く結合しますが、酪酸も一定の割合で結合して程よい薬理作用を発揮するのです。

 酪酸とニコチン酸の刺激を受けたGPR109Aは、様々な反応を引き起こしますが、中でも大事な反応はヒトの免疫系を健康状態に保つことです。腸の中には様々な物質があって、腸の免疫を過剰に刺激して炎症を起こしたりします(潰瘍性大腸炎やクローン病)。免疫系を健康に保つことができれば、そういった良くない症状が抑えられて、腸全体の健康が保たれることが分かってきました。

 話はそれだけではありません。GPR109Aは全身の細胞にも分布しているので、酪酸もニコチン酸も血液と共に全身に分布して、行く先々の臓器で健康な免疫の維持に寄与しているというのです。1つだけ例を挙げますと、誰もがなりたくないと思っている脳の病気、特に脳の神経細胞の数が減って、記憶力や判断力が無くなってしまうアルツハイマー病、更には全身の筋肉が動かなくなる筋萎縮性側索硬化症(ALS)といった難病の発症までも予防できるというのです。この現象は「腸-脳関連」といって、今最もホットな生命科学の話題です。

 大腸はそこに棲んでいる腸内菌によって、良くも悪くも全身の健康状態に影響を及ぼします。どうしたら腸内菌叢を最善に保つことが出来るのか?それができれば健康な長寿の元になると期待されています。その方法は、腸内菌叢のバランスを保つような食事が一番大事です。しかし食事について他人から学ぶことができるのは食べ物の選択肢だけです。食事には好き嫌いがありますし、線維性食品が腸内菌を育てると言っても、嫌いなものを無理して食べれば、返って病気になってしまいます。数ある線維性食材のどれが一番自分に合っているかを、経験から学んで選ぶこと、それこそが自分だけにできる非常に大事な「腹も身の内の極意」なのです。

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